目次
オランダやオーストリア、アメリカなど海外のアートイベントで会場を沸かせる若き女性がいる。筆を使った「書」をカラフルかつ独創的に表現し、一度見たら忘れられない斬新なアートを手掛ける中島美紀さんだ。自らを「書作家」と名乗り、日本の伝統文化である「書道」に個性を吹き込み、アート作品として新しい価値を生み出す。型破りな作風で海外進出を果たす彼女に、個性を開花するきっかけになったターニングポイントと、「書」への思い、ヒットアイテム誕生秘話について話をうかがった。
Q. 中島さんの肩書きは「書作家」。書道家と何が違うのでしょうか?
自分の肩書きを示す際に、どうも「書道家」という響きがしっくりこなくて…。「書道」と言えば、白と黒、紙と墨、みたいな固定観念がありますよね。
私は3歳から習字を習い、高校も大学も芸術科卒でずっと書道一筋で生きてきました。ところが大学4年の頃に初めて訪れたN.Y.で、書道に対する考え方や表現者としての視野がグンと広がったんですよ。街中に転がる斬新な現代アート、見たことのない大スケールの建築物、エネルギッシュな人々。みんなが堂々としていて、生き生きと自分らしさを表現している。「私ももっと自由になっていいじゃん!」と我に返り、表現の幅を白、黒、紙、墨だけに限定しないことに決めました。
帰国後は、作風が著しく変化しましたね。以前は筆ばかり使っていたけれど、いろんな道具を使い始めて、色もたくさん使うようになり、こうした作風なら「書道家」ではなく、書を扱う作家の「書作家」の方が腑に落ちると、自ら名乗り始めました。
Q. 大学卒業後、教育の分野にも携われたそうですね?
「書で生きていく!」と決めたものの、大学卒業後は書の仕事がほとんどなくて、アルバイトで生計を立てる日が続きました。しばらくして、友だちから「学校生活支援員(※)として働かない?」と声をかけられて、やってみるかと金髪を黒髪に染め直し、挑戦してみることにしました。なにごとも、思い立ったら即行動のタイプです。
※「学校生活支援員」(旧「特別支援教育支援員」)とは、小・中学校、高等学校において、さまざまな配慮を必要とする児童・生徒に対し、学校生活上の支援などを行う臨時職員
学校生活支援員として私が担当したのは、発達障害を持った小学生でした。周りの子たちと一緒に授業を受けられるように、また本人が苦に感じないように、さりげなくサポートすることが役割。まずは私が彼らの友だちになって、担任の先生より近い存在になることに徹しましたね。とことん仲良くなって、注意すべきところは指導する。すると、だんだん「中島先生がいるなら学校に行くよ」と、発達障害の子もそうじゃない子も、みんな一緒に授業を楽しんでくれるようになったんです。無事に卒業していく姿を見て、子どもたちの成長に関わるきっかけになれた気がして嬉しかったですね。
Q. 子どもたちとの関わりで、どんな発見や価値が生まれましたか?
私は、幼い頃から習字がすごく好きでした。好きだし、楽しいから20年以上続けてこれました。だからこそ余計に、生徒たちの「習字ってつまんない」という反応が衝撃的で…。習字の楽しさをもっと知ってもらいたくて、担任の先生に直談判し、学校生活支援員の業務の傍ら、習字の授業を担当させてもらうことに。
授業では、子どもたちが食いつきそうな「おしりプリッ」「ジュキュシュ!」など親しみやすいキーワードをたくさん使ってコツを伝えたり、「こういうハネだとウンコっぽく見えるから注意!」など、自己流の教え方をしていました。他にも、その辺にある枝や葉っぱなどでオリジナルの筆を作ったり、好きなキャラクターや食べ物の名前を習字で書いたりも(笑)。こういう自由な発想はN.Y.で目覚めたこと! このユニークな授業を生徒たちも面白がってくれて、それまで学校に来なかった子や、授業に集中できなかった子たちが、積極的に私の授業に参加するようになりました。いや〜、気持ちが入ると成果に現れますね…! 結果的にコンクールで賞をもらって表彰されるほど、みんなめきめき上達しました。
習字の可能性ってスゴイ! 人をこんなに動かすんだ! と超感動。「書」があることで面白いコミュニケーションが取れて、心が通い合える気がしましたし、独自のアプローチで子どもの才能を伸ばしたり、成長に関与できたことは、とてもいい経験になりました。
Q. そこで生まれたのが、全国から問い合わせ殺到中の「中島スペシャル」!?
はははは! そうですね。
途中から全クラスの習字と硬筆の授業を受け持つことになり、県のコンクールで生徒たちがたくさん受賞するようになったので、「あそこの学校の生徒はみんな字が上手い!」と他校にも評判が広がりました。
私が授業中に配るオリジナルの手本用紙は、いつしか「中島スペシャル」と呼ばれるようになりました。Instagramにちょこちょこ黒板や手本をアップしていたら、全国各地の先生から指導書を出してほしいとリクエストを受けることが増えたんです。当時は忙しくてそれどころじゃなかったので、学校の仕事を辞めた後の2017年頃から、小学校教諭を対象とした指導書の販売を始めました。今ではこの「中島スペシャル」を使って、先生向けのセミナーも開催しています。
【子どもに親近感を与えるフレーズを使い、楽しく書道を学べる教材「中島スペシャル」】
【全国各地の習字の講師のもとに渡り、「中島スペシャル」を手にした生徒は1万人に迫る】
Q. 本職のアートの話も。アーティストとして飛躍するきっかけになったのは何?
もともとアーティストの姉とユニットを組み、筆文字のライヴパフォーマンスをする福岡市の観光プロモーションの仕事でオランダへ行ったりもしていました。
大きなターニングポイントになったのは、2017年に訪れた2度目のN.Y.。
N.Y.在住の友人の厚意で、20日間ほど部屋に居候させてもらいました。現地の人とランゲージエクスチェンジする機会があり、その集合場所が鹿児島発のラーメン屋『麺屋二郎』の N.Y.店だったんですよ。以前鹿児島の本店に行ったことがあったので、店主にその時の話をしたら意気投合して、店内の壁画を描かせてもらうことが即決定。
そしたら店にたまたま「ニューヨークジャパンフェス」の主催者がいて、「路上でゲリラパフォーマンスしなよ!」と誘ってくれて、あれよあれよとジャパンフェスの参加も決まりました。
当時の最終目標はN.Y.での個展でしたが、N.Y.で個展を開くためにはギャラリーとの契約が必要なのに、肝心のギャラリーとの接点がなかなか見つからず…。そんな中、日本舞踊のパーティーに参加したことをきっかけに、複数の人のツテでギャラリーオーナーと繋がれて、契約できることになったんです! この翌年、世界的に名高いアートフェア「Scope Art Show」への出展が決まり、この時のN.Y.での出会いは鳥肌が立つくらいスゴかったです…!! 人との縁や運もあると思いますが、「思い立ったら即行動」の性格も効果的だったと今になって思います。
【「ニューヨークジャパンフェス」での路上パフォーマンス】
Q. 「書」だけで食べていけるようになったのはいつ頃から?
私、ずっと自分の作品を販売してこなかったんです。ライヴペイントや書のパフォーマンスは仕事としてお金をいただいていましたが、書そのものやアート作品はずっと手元に残し、個展でも販売していませんでした。理由は、作品への愛が強すぎたから(笑)。
でも、このまま手元に残しても、作品たちはずっと眠った状態。人に見られることでアートは生きるのに、私は作品に対してかわいそうなことをしているのかもしれない、プロとしてはこの考え方はいけないなと気づきました。2017年の個展から販売するようにしたら、想像以上に多くの方に購入していただき、いろんな空間で嬉しそうに飾られている自分の作品を見て、「あぁ、やっぱりこうあるべきだな」と納得しました。私が全身全霊をかけて作り上げたものによって誰かが元気になったり、豊かな気持ちになれたり、背中を押す存在になっているのなら、それ以上嬉しいことはありません。
アートを販売し始めた同じタイミングで学校の仕事を辞めましたが、「中島スペシャル」の収入もありますし、ライヴペイントやオーダー作品など、書の仕事だけでしっかり生計を立てられていますよ。
Q.中島さんのこれからの活動や、将来の目標を教えてください。
小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、「洋服屋さんになること」。大人になってからも洋服がずっと好きで、いつかアパレルブランドを立ち上げたいという淡い夢をずっと持ち続けていました。
実は普段から、市販のバッグに自分のアートを施して身につけているんですが、周りから販売のラブコールをもらうことが多くて。反響が大きかったので東京のアパレルチームとタッグを組み、私のブランドを立ち上げて、バッグを一から製作中です。1月にはお披露目できると思うので、完成をお楽しみに!
【アートを施したバッグの試作品】
ゆくゆくはパリコレに出る野望もあります。ステージに無地の洋服をまとったモデルたちが立っていて、私が洋服に書のアートを施した瞬間、モデルたちが動き出す…みたいな構想を膨らませています。いつか絶対にライヴペインティング×アパレルのショーをやりたい!
ちなみに、来年から拠点をN.Y.に移す予定です。これからも自由な発想と個性をフル稼働させて、「世界の中島」と呼ばれるほど書とアートを突き詰めていきたいです!