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「何かモノゴトを始めたい」「いつか自分のお店を開きたい」。漠然とした夢や希望があっても、ハッキリとした道が見つからなかったり、どう動き出していいかわからなかったりで、時だけが経ち、気づけば身動きが取りにくい状況に……。けれど“淡い夢”で終わらせず、自分が思い描くワークスタイルを切り開いた一人の男性がいる。自転車移動喫茶「Hand anything」を営む秋利(あきとし)康介さんだ。自らを「慎重派」と語るが、どういう経緯で新事業を立ち上げたのだろう。秋利さんが見出した新しいワークスタイルについて話を伺った。
いつかいつか、と思っていた転機がふいにやってきた。
福岡市・平尾の自転車専門店「Sputnik」の一角で、ドリップコーヒーを提供するのは「Hand anything」の秋利康介さん。屋台のように自転車を土台にしたコーヒースタンドを開き、福岡市内のいたるところで“自転車移動喫茶”を運営しています。移動喫茶というニュータイプの店舗形態とあって、覗いていく通行人や気になって声をかけるお客さんも多いそう。この自転車移動喫茶「Hand anything」をオープンさせたのは昨年11月のこと。どういう流れで店舗を立ち上げることになったのでしょうか?
島根県生まれの秋利さんは、名古屋の大学で建築とデザインを学び、大学卒業後はものづくりを志して関西の家具メーカーと工業用金属製品の製造会社に勤めていました。
「ものづくりは好きだけど定年まで設計の仕事をするつもりはなくて、個人で稼げる何かをやりたいと思っていました。何をするかまでは決まっていませんでしたが、フットワークが軽い若いうちに前へ踏み出さなければと思い、30歳を目の前に己と向き合いましたね」
自分には何ができるか。一体何がしたいのか。最初から個人事業を始めるのか。そんな自問自答を重ねていた矢先、奥さまが異動で福岡にUターンすることになったそう。これを転機と捉え、秋利さんは勤めていたメーカーを退職し、昨年6月末に新天地の福岡へ移住しました。
コーヒーのおいしさを教えてくれた人生の先輩に憧れて、独立を決心!
大阪在住時代に、自家焙煎のコーヒーショップ「もなか珈琲」に出会ったことがターニングポイントのきっかけになったと語ります。「世の中に、こんなにおいしいコーヒーがあるのか! と初めての感動を覚えましたね。「もなか珈琲」の店主とは家族ぐるみで仲良くなり、次第にその方の人柄と生き方にも憧れを抱くようになりました。彼も下積みを経て28歳の時に独立開業したそうで、コーヒーのおいしさと、働くことへの価値観、この二つを同時に教わったような感覚です」
秋利さんも「もなか珈琲」の店主のように独立開業しようと決心したものの、飲食業界についての知識も経験もなく、開業時に多額のローンを抱えることに不安を抱いたとか。
前職がメーカー勤務とあって、原価計算は得意。コーヒーを生業にするために、いくら必要で1日何杯売らなければいけないかを計算し、悶々と立ち往生する日々が続いたと言います。初めての飲食業で、ましてや知らない土地で人脈もゼロベースからのスタート。「こんな状況で、最初から大きなバクチは打てないなと(笑)。僕は石橋を叩いて渡るタイプなので、まずは一番小さい規模から始めることにしました」と、実店舗を持たない移動販売を選んだのです。
一台の自転車との出合いが、今の営業スタイルの決定打に。
移動販売を行う際に、車だと初期費用がかかり、駐車代やガソリン代、保険料などランニングコストがかかります。また駐車できる場所が限られるので、提供スポットも限られてきます。他に策はないかと考えていたときに、秋利さんは初期投資も維持費も低価格で済む自転車に目をつけました。
「自転車を使った仮設の喫茶店なら、あちこち街中を回れて、軒先に停めさせてもらったり、店舗に乗り入れできたり、営業場所が幅広くて画期的だなと! 本当は前輪が2つ付いた3輪タイプの自転車が欲しかったんですけど、海外製だと40万円くらいの高額に……。またしても頭を抱えていたら、『Sputnik』さんで偶然この愛車に出合ったんです!」
京都・伏見の自転車ブランド「E.B.S」の自転車が、たまたまセールで30万円から20万円にプライスオフされているのを発見! 「もう、これは運命だと思って、購入しました!」と秋利さん。キャッチーな赤色の自転車を格安で手に入れました。この縁もあり、今では平日午前中に「Sputnik」にて出張喫茶を開くのがお決まりに。
自転車を使った移動販売が、市場調査や人脈作りに繋がっている。
まったく街の事情を知らない状態で福岡に移住してきた秋利さん。福岡市内の各エリアの雰囲気や特徴、住人のカラーなど皆無だったからこそ、一箇所に拠点を絞らずに、あちこち回れる自転車の仮設喫茶が正解だったそうです。
「いろんな街を行き来して、その地域の人と触れ合うことが市場調査になり、今後路面にお店を出す際の判断材料になっています。あと、この自転車だとなにかと目立つので、いろんな人から『何のお店ですか?』と声をかけられますし、自然と人と人の繋がりを育めています」
出張イベントを希望するショップ関係者も声をかけやすいようで、秋利さんに「うちの店でも開けませんか」とたびたびオファーがあるそう。平尾の自転車専門店Sputnikを中心にさまざまな場所で営業しています。
開業時の初期投資は、数ヵ月先の運転資金込みで100万円。
「前職の夏のボーナスと、失業保険(再就職手当)を開業資金に充てました。この自転車が約20万円で、ほかはコーヒーやドリンクの仕入れの費用と器具などがチリツモで。そうそう、自転車をコーヒースタンド仕様するためにDIYしたので、その材料費もかかりましたし、開業後の運転資金も含めて、ざっと100万円くらいでしょうか」
これまでに培った設計・デザインの技術を生かして、自転車のカスタムはDIYで済んだので、その分の節約は大きい。自転車に取り付けたカウンターは天板が開閉式になっていて、カウンターの下には収納を完備。必要経費も店舗サイズもミニマムに、フットワーク軽くあちこち回れる移動喫茶になっています。
空き時間を有効利用して、ダブルワークも導入!
実は秋利さん、移動喫茶の空き時間を使ってデザイン業務も行っています。移動販売の特性上、雨天時は営業できず、また客足が緩やかな日には時間が空くこともあるので、その余白を使ってイラストやラフ作成などのリモートワークを実践しているのです。「僕のような店舗形態だと、実店舗と違って空き時間に仕込みができないので、場所を問わないデザインの仕事を持ち込みながら時間を有効利用しています。今はショップカードや名刺、ロゴマークを制作していて、物販店の方からもイベント用の什器が欲しいと、設計デザインの依頼をいただいています」。
今後は商売道具の自転車を増やすかもしれないし、はたまた実店舗を持つかもしれない。どうするかは、しばらくこのスタイルを続けながら決めていこうと思っていますと語る秋利さん。「可能性を自ら限定させたくなくて。偶然なのか必然なのか、運命の出会いとその時の流れに身を任せながら、自分らしくいられる道を探っていきたいです」。