不適切にも程があるコラム『ワタシが人妻にこだわる理由』
監修・ライター
「不適切にも程がある」というドラマは面白かった。時代を行き来するという前提の中で、不適切な発言や行為を容認させてしまうTVドラマ。何かとハラスメントだと言われてしまうややこしい時代を逆手に取ったシナリオには唸った。
…ということでワタシ(中村修治)も挑戦をしてみる。
※注釈
このコラムには『人妻』というワードが多数登場しますが、あえて表現しています。気持ち悪いし、気に入らない読者の方は、ここまでで閲読をお控えください。
ワタシは『人妻研究家』である。
独立起業した30年ほど前から、ワタシは、そんな肩書きを自称している。不適切にもほどがあるのは、重々承知である。しかし、その肩書きのおかげで、たくさんの人妻たちとの交流が広がっている。2024年5月の現在も、その効果は、健在。月イチで“修さん会”なる集まりに呼ばれる。
そのメンバーは、多様である。月間の売り上げが数百万円のコンサルタント人妻や、ひとり起業の人妻、10人の子どもを育てているという肝の座った人妻など。お話は、いつも収集がつかないけれど、面白いのは、間違いない。この社会は、『人妻という女性』を中心にまわっていることが確信できる。
『人妻』が研究対象である理由。
子どもを中心に考えると、ママ。
旦那様・夫の社会を中心に考えると、妻であり奥様。
立場の弱い夫からみたら、カミさん。
行政や税制上の分類では、配偶者。
家庭を持つ女性の呼称は、その社会的関係性の中で、多様に変化する。ジェンダー(社会的性差)がこんなところに集約されていることは知っている。ここにもうひとつの呼称としての『人妻』。正式には、他人妻である。もっての外かもしれない。
しかし、よく考えていただきたい。『人妻』とは、家庭という軸から離れた呼称である。ママや奥様が『人妻』と呼ばれた途端に、家庭から解放される。ママや奥様は、消費する主体であるが『人妻』と呼称を変えるだけで消費される側にまわる。需給のバランスが発生する。消費マーケットという観点から考えても『人妻』という呼称は、魅力的なのである。
ワタシが『人妻たち』と呼ぶサークルのママたちの起業率は高い。
そして、お金に対する感度も高い。
家に縛られていない自由なスタンスを謳歌している。
ジェンダー(社会的性差)を問題として捉えるより、歴然とある性差を意識すらせず、社会に果敢に挑む姿がそこにはある。ワタシが研究したいのは、家から解放されたママたちの意識と生態なのである。
『人妻』の相談は笑い飛ばすこと!!
人妻研究家のワタシには、いろんな夫婦問題が持ち込まれる。そういうときは、なんの解決もせずに笑い飛ばしてあげることにしている。夫婦喧嘩は、犬も喰わないのである。首を突っ込んだだけバカをみる。
家族問題も、夫婦問題も、それを表現すると「ギクシャク」なわけである。話すこと、食べること、寝ること、それらがいちいちカックンカックンしはじめるのである。要は、「自由」でいられなくなるわけである。
『嫌われる勇気』岸見一郎著には、「自由とは、他者から嫌われることである」と定義されている。愛されたい。支配したい。この人はわたしに何を与えてくれるのか?を考え続けるから「自由」じゃなくなるのである。「嫌われても良い」ということに少しずつ挑戦して、そこまでもが許される関係の扉をこじ開けていかないと「自由」なんて手に入らない。
夫婦の愛が続くかどうかは、相手に「自由を与えたかどうか」で決まる。
夫婦の幸福とは、相手の自由への貢献感で量られる。
『人妻』たちの自由の担保は、お金!?
ワタシが知る『人妻』を謳歌するママたちの多くは、経済的に自立している。月額数百万円
の収入を得れば、その利益は、家事や子育ての労力を軽減し、自由な時間も獲得できるというものである。
月イチで開催される「修さん会」の表向きの目的は、起業独立しているママたちの経営相談である。しかし、そんな建前はスタートとともに崩壊する。
もう後は、お金の話題から、フェムテックまわりの際どい話まで、自由に繰り広げられる。ワタシの役目は、そこに居るだけ。たぶん、きっと、ワタシがそこに存在することすら覚えていない。笑
「この人と一緒にいるととても自由に振る舞える」と感じてもらえることこそ、人妻研究家としての資質である。カックンカックンしないことが『人妻たち』と時間を共にできる秘訣である。